はじめまして、お姫様(またはカレーを食べよう、その3)

2020/10/06

チーズフォンデュクラブストーリー

 新婚のラジャさんちに遊びに行った日の話の続きです。

あらすじ。僕はベンを家に待たせているので、焦って少しパニックになりました。

 

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 甘い言葉の一つも言えない上に、約束を何度もないがしろにするなんて、アメリカ人のパートナー失格だ。だけど、ベン相手に、「子猫ちゃん」だなんて、口が裂けてもーー

 

みゃあ。

 

奇妙な気配に気づいて顔を上げると、目の前に猫が座っていた。毛足の長い、白っぽいきれいな猫である。

ーーん?…子猫、ちゃん?

「こらこら、お客さんを驚かせてはいけないよ、スノーホワイト」

ラジャが戸棚まで戻ってきて言った。スノーホワイト(白雪姫)とは、猫の名前、らしい。

「どうしたんです、冬一郎君? なんだか顔色が悪いですよ。ひょっとして、猫は苦手でしたか?」

「あ、いえ…大丈夫です」

冬一郎は自分で自分の狼狽ぶりがおかしくなって、ぷっと吹き出した。
なあんだ、子猫ちゃんにお姫様、って、本当に子猫のことだったのか。そうだよな、いくらなんでも自分の奥さんのことを、プリンセスなんて、呼ばないよな。

「とっても、可愛いお姫様ですね」

冬一郎は戸棚の影から少し這い出て腕を伸ばし、猫の耳の後ろを撫でた。白猫は気持ちよさそうに目を細めた。

「おや、珍しいですね。スノーホワイトがお客さんに体を触らせるとは」

ラジャが驚いた。

「この子は普段は妻と同じで臆病というか、警戒心が強いのですよ。可哀想に、この近くの公園に捨てられていたのです、きっとそのせいだと思うのですが」

「ええっ?こんな子猫を捨てるなんて、ひどい話だ」

冬一郎は憤ったあまり、隠れるのを忘れて出てくると、立ち上がりながら猫を抱き上げた。猫は、大人しく冬一郎の腕におさまり、グミみたいなピンク色の鼻をふんふん動かした。

「おやおや!本当に珍しい!抱っこまでさせるとは」ラジャは笑った。
「どうやらスノーホワイトは、君が好きなようですよ」

「あはは…匂いですよ」

冬一郎も思わず笑顔になって答えた。

「猫はカレーの匂いが好きなんです。さっきスパイスを少し服にこぼしてしまったから、まだ香ってるんでしょうーーよしよし、良い子だね」

冬一郎は猫の柔らかい手触りを楽しんだ。小さな命の温もりを胸に感じると、焦る気持ちは瞬く間に消え失せ、すっかり落ち着いた気分になった。

ーーロンは、慣れない保育園でどうしているかな…。

よし、家に帰ろう。今帰れば、ベンもそんなに怒らないだろう。第一、デートに遅刻するのはベンの十八番じゃないか。2時間や3時間くらい、僕は今まで何度も待ったぞ。なあに、僕らはまだ、大丈夫さ。



「ラジャさん、大変申し訳ないのですが」

冬一郎は丁寧に切り出した。

「僕は急用を思い出したので、帰らないとならないんです。奥様に一言ご挨拶をしたら、どうか、失礼させてください」

「な、何を仰るんです?!せっかく作ったカレーを食べずに帰るだなんてそんな、いけませんよ!妻がどれほどがっかりするかーー」

「あのう…一体どなたか、そこにいらっしゃるんですか?」

突然の日本語に、冬一郎はびっくりして振り向いた。台所の入り口の柱の影に、半分以上隠れるようにして、メガネをかけた小柄な女性が立っていた。あ、しまった僕、隠れてないといけなかったのに、いきなり奥さんに見られちゃったーーと冬一郎が思ったその時。

「おお、ダーリン、愛しい妻よ!」

ラジャが英語で叫び、ぱっと踵を返して女性に近寄りながら、日本語で、
「カワイイわたしの奥さん!ごきげんはいかがですか?」と言い、さらには、奥さんの前で片足をついて跪き、まさに王子さまがお姫さまにやるような格好で手を差し出した。

ーーあっ、あれっ。冬一郎は驚きで口をあんぐり開けた。ーーやっぱり、そんな呼び方、しちゃうんだ!

冬一郎は非常にいたたまれない気持ちになったが、どうやら実は、奥さんの方はもっといたたまれなかったらしい。

「ぎゃーっ!そういうこと絶対しないでって、お願いしてるじゃあないですか!!」と日本語で泣きそうに叫んだ。そして、
「お客さんの前なのにぃー!」と走って向こうへ逃げていってしまった。彼女の悲鳴のおかげで、冬一郎の腕の猫も驚き、ぱっと飛び降りて走り去ってしまった。

「ほら、だから言ったでしょう」

ラジャはこちらを振り向いて肩をすくめ、冬一郎を咎めた。

「いきなりあなたに会ったから、妻が怖がってしまったではないですか」

ええー…?
これ、僕のせいなのか?
冬一郎は少々(いや、だいぶ)疑問に思った。

 

続きます

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