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悪かったってば |
☆少々アダルトな発言等が含まれます
ベンは機嫌が悪かった。
土曜の予定をダブルブッキングした冬一郎が、自分とのデートの約束の方を後回しにしようとしているからである。
「すねるなよ、ベン。相手はこの間知り合ったばかりの人だしさ、いきなり失礼はしたくないんだよ。ベビーシッター手配したりして働いたのは僕なんだから、別にいいだろ?」
「そんなの関係あるもんか。俺は、楽しみにしてたんだよ!」
夜、冬一郎は事情を説明しようとしたのだが、やや思いやりに欠ける言い方をしたのもあり、ベンを余計に怒らせてしまった。冬一郎は慌ててなだめようとした。
「分かったよ。本当に、ごめん。また次の土曜に延期してくれよ。な?」
「いやだ」ベンは子供っぽくむくれた。
「俺だって頑張って予定を空けたんだ。本当は仕事が入ってたのを、ずらしたんだ。俺たち、もっと2人の時間を大事にしようって話をしたところだろう?君が俺との約束を優先して、タバスコ野郎の方を延期すべきだ」
タバスコ野郎、とはラジャの事だ。冬一郎は理由を知らないのだが、ベンはラジャのことを嫌って、そう呼ぶのだ。
「僕が悪かったよ」冬一郎は仕方なく、猫撫で声を出して説得にかかった。
「でもさ、これは君の為でもあるだろ。ラジャさんは、君が今頑張ってるプロジェクトの、スポンサー側の人だって言ってたじゃないか。やっぱり失礼をしたらまずいよ。どうせ、初めて上がる家に、長居なんてしないよ。レシピをもらうだけさ。すぐ終わらせて帰ってくるから、そしたらーー」
「そしたら?」ベンが仏頂面で聞き返した。冬一郎はちょっと迷ったが、恥ずかしいのをぐっと我慢して、申し出た。
「そしたらその。2人で、そのーー何というか、スキンシップ、とろうよ。昨日の夜は断ったりして、悪かったから」
ベンの顔からすうと険しさが消え失せ、代わりに、少しはにかんだ笑顔が虹のように現れた。あっという間に機嫌を直したようだ。こういうところだけ、彼はいやに素直で分かりやすい。
「冬一郎ちゃんがそういうこと言ってくれるの、久しぶりだね。分かった、じゃあ今度こそ、約束だからな」
土曜日。
冬一郎はロンを一時保育に預け、1人、ラジャの宅へと向かった。家を出る時、ベンも一緒に来たらどうか、と誘ったが、彼は首を横に振った。
「またチェスを挑まれたら面倒だから嫌なんだ。君も、チェスの話をされたら、逃げろよ。君じゃあとても敵わない相手だからな」
敵わないも何も、冬一郎はチェスのルールすらよく知らない。将棋なら、分かるが。
「ところで冬一郎ちゃん。タバスコ野郎は、結局、君に何の用なんだっけ?」
「何度も言ってるだろ…、特別健康的なアメリカ料理のレシピを、分けてくれるんだってさ」
玄関で座って靴を履きながら冬一郎は答えた。「君の料理は、バターの量が死ぬほど多くて真似できないって話を、僕がしたのさ。基本のきがわかってなくて、悪かったな」
「健康的な料理?ふん、面白いね」
ベンはひどく面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「バターを使わないアメリカ料理なんて、ダシを使わない和食みたいなもんさ。おおかた、ラジャはヴィーガン(ベジタリアンの一種)か何かなんだろ。この間の接待の時だって、あの今いちパッとしない日本料理を、やたらうまそうに食べてたしな」
「懐石料理のことか?高いんだぞ」
冬一郎は笑った。
「じゃあ、出来るだけ早く帰るから」
「うん」
立ち上がった冬一郎に、ベンはアメリカ人らしく別れ際のハグを求めてきた。ついでに頰に軽くキスして、
「約束、忘れないでくれよな」と念を押した。