「奥さん、あの。初めまして」
冬一郎はトイレの戸をノックしながら日本語で言った。
「僕、樋口冬一郎と言います。そのーーちょっとだけ、ご挨拶したいので、良かったらその、出てきてくれませんか」
ラジャの奥さんはトイレに立てこもっていた。先ほどまでラジャがドア前で説得にかかっていたのだが、「出ておいで、ハニー、可愛いひと!」などの甘い言葉(英語日本語両方)の連続で呼びかけたため、奥さんは(冬一郎の理解では)恥ずかしさのあまり、ますます頑なに閉じこもったのであった。
「ゆず、スイートハート、お砂糖さん!こちらにいらっしゃるお客さんは、怖い人ではありませんよ。ほら、あの日君を助けてくれた、カラテニンジャさんなのですよ!」
「ゆずちゃん、出ておいでよー!」ナタリアも言った。「カレー冷めちゃうわよ?あーあ、お腹すいちゃったわ。とても良い匂いしてるんだもの、我慢できないわ」
「仕方ありません。ナタリアさん、ダイニングへどうぞ」ラジャが諦めて言った。「こうなっては、妻はしばらく出てきてくれませんからね、食べながら待ちましょう」
そこで2人はダイニングへと移動した。
冬一郎だけは、トイレ前に残った。
「えっと…ゆずさん?」
冬一郎はもう一度、日本語で話しかけた。
「僕、その、用事があって、もうすぐ帰らないとならないんです。せっかくだから、少しだけご挨拶、させてもらえませんか」
かちゃり、と静かに鍵の外れる音がして、トイレの戸が開き、先ほどの大人しそうな黒髪の女性がおずおずと顔を出した。彼女の腕には、猫のスノーホワイトがいた。ーーお姫様たち、2人してここへ逃げ込んだのか、と冬一郎は何だか微笑ましく思った。
「本当にごめんなさいーー樋口、さん」
泣きそうな顔でゆずが言った。
「お恥ずかしいところをお見せして…。その、先日も、すみませんでした。酔っ払いに絡まれたのを助けてもらったのに、私はそのまま逃げてしまって。その上、初めてご挨拶する所が、トイレの前だなんてーーこんなところに隠れて、私、ものすごい幼稚ですよね。でもそれ以外に、仕方なくって」
「大丈夫。僕、よく分かりますよ、ゆずさんの気持ち」
冬一郎は何やら強い親近感を覚えながら慰めた。
「僕もついこの間、パートナーから逃げたくて、トイレに立て篭もりましたから。放っておいてくれと頼んでるのに、扉をバンバン叩いて、おなか痛いのかとか何だとか、あれこれ話しかけてくるんですよ。とっても困りましたよ」
「えっ、そうなんですか」
ゆずは目を上げた。縁の太いメガネをかけているが、かえってそれが彼女の顔や体のつくりの華奢さを強調しているかのようだった。
「樋口さんも、トイレに隠れたり、なさったんですか?」
「ええ、1人になりたくて。でもね、パートナーがしつこくて、それに今は息子の後追いもすごいので、1人にはほとんどなれないんです」
「同じ!うちと同じです!うちのキーリンも、私のことトイレの中まで追いかけてくるんですよぅ。可愛いんだけど、ほんとに参っちゃうんです!」
ゆずは激しくうなずいた後、初めてホッとした笑顔を見せた。