「えっ、そうなんですか」
ゆずは目を上げた。縁の太いメガネをかけているが、かえってそれが、彼女の顔や体のつくりの華奢さを強調しているかのようだった。
「樋口さんも、トイレに隠れたり、なさったんですか?」
「ええ、1人になりたくて」冬一郎は答えた。
「でもね、パートナーがしつこくて、それに今は息子の後追いもすごいので、1人にはほとんどなれないんです」
「同じ!うちと同じです!うちのキーリンも、私のことトイレの中まで追いかけてくるんですよぉ。可愛いんだけど、ほんとに参っちゃうんです!」
ゆずは激しくうなずいた後、初めてホッとした笑顔を見せた。
「ああ、嬉しいです、色々分かってくださる方で!もう私、恥ずかしくて、トイレの中でアタマ爆発して死ぬのかと思ってました!」
「いや、死なないで下さい。僕がラジャさんに殺されちゃいますよ」
冬一郎も嬉しくなって笑顔を作った。トイレの前という妙な場所ではあるが、子育ての話ができる友達ができたのだ、それも日本語で。楽しくて、つい色々と話したくなってきたが、今は家に帰らなくてはならない。
「ゆずさん、もっとお話ししていたいのですが、僕、さっき言ったとおり、用事があってすぐに帰らないといけないんです。また今度、ゆっくりーーえっと、キーリン君でしたっけ、のお話聞かせてください」
「えええっ、本当に帰っちゃうんですか?」ゆずはまた泣きそうになった。「そんなあ、だめですよう。一人にしないでください」
あれ?さっきまで一人になりたがってたのに、と思って冬一郎はおかしかったが、そんなゆずを可愛らしい人だなとも思った。
「一人じゃありませんよ、ラジャさんもナタリアさんもダイニングで待ってますよ。2人によろしく伝えてください。僕このまま行きますね、玄関はどちらでしたっけ?」
「だめなんですよう、樋口さん、本当に行かないでください」
ゆずは必死な様子で追いすがってきた。
「樋口さん、お願いです、助けてほしいんです、わたし、実は、実は―」
彼女の腕から飛び降りた猫が、冬一郎の足にクルっとまつわりついて、あやうく踏みつけるところであった。慌てて立ち止まった冬一郎に、後ろからゆずが思い切りドンとぶつかった。冬一郎はよろけて、再び猫に躓きそうになり、変な格好で何とか踏みとどまったところへ、体勢を大いに崩したゆずが倒れかかってきたので、冬一郎は片膝ついて、腕で抱き留める格好になった。
「大丈夫ですか?!」冬一郎が聞くと、ゆずは目を回したようで、奇妙な声で呻いた。ついでに、猫がゆずの胸の上にとびのり、冬一郎のシャツの襟ぐりによじ登った。ラジャの声が頭の上から聞こえたのは、そんな状況の時であった。
「おや、おや、冬一郎君。これは、これは。どうも君は、うちのお姫様たちに、大人気のようですね」
「え?」
言われて気づけば、冬一郎は王子様よろしく、片膝立ちでゆずを右肩に抱き支え、もう片腕でスノーホワイトを左肩に抱く格好であった。
ーーあれっ。もしかしてこれって、まずかった、かな?
おずおず見上げると、ラジャはニッコリ、こわいくらい満面の笑みを浮かべていた。