すぐ帰るーーそう言ったくせに、冬一郎が家を出てから、もうかれこれ6時間である。時計の針は午後の3時をさした。ロンのお迎えは4時。あと1時間しかないではないか。
久しぶりに2人きりで過ごそう、忘れないでくれよと、冬一郎には何度も念を押した。それなのに。…冬一郎はいつもこうだ。大人しいフリして喧嘩ばかり起こすし、誠実そのものみたいな顔をしておいて、俺との約束は平気でーー
ブルブル、と携帯に着信が来て、即座に手を伸ばして取り上げれば、相手は冬一郎ではなく、ミカエルであった。
夕飯を一緒に食べないか。いつもの調子で、彼は誘ってきた。ミートボールを作るから、と。
「今夜は遠慮しておくよ」ベンが深いため息まじりに答えると、相手は戸惑ったようだった。
「どうかしたのか?元気ないな」
「何でもないよ。悪いな、せっかくなのに」
ぶっきらぼうに電話を切ったあとで、ああ、でもミカのミートボールか、とベンはひどく残念に思った。十年来の親友は、大の料理好きだ。うまい食事を作っては、毎日のようにご馳走してくれる。正直、彼の味付けは、冬一郎の料理よりもよほどベンの口に合った。「健康に悪い」と勝手にバターを半分以下に減らしてくるケチな冬一郎と違い、ミカエルはバターもチーズもたっぷりと使ってくれるからだ。そういえば、腹がペコペコである。冬一郎と2人でカフェにでも行くつもりで、昼飯を我慢していたのだから当然である。3時。ミカエルの所にいけば、まず間違いなく淹れたての熱いコーヒーと、甘いケーキにありつけるだろう。スウェーデン人の彼は、毎日のフィーカ(コーヒータイム)を決して欠かさないからだ。
ーー今すぐ帰ってこないなら、一人でフィーカに行ってしまうからな!ベンは怒って5度目の電話を冬一郎にかけた。しばらく鳴らしていると、やっと、通話がつながった。
「ベン?」
何してるんだよ、約束が違うじゃないかーーそう言いかけた言葉は驚きで喉の奥に戻った。電話に出たのは女の声だったのである。
「ベン?」女の声がまた言った。「ベンよね?私よ、ナタリア。覚えてる?」
「ナッちゃん?」ベンは聞いた。記憶はさっと遡った。駅前のスタバで一度会った、メキシコ系のアメリカ人女性。そういえばあの時も、彼女は冬一郎と一緒であった。そして、あのタバスコ野郎も。
「ナッちゃん。君がこの電話に出るなんてビックリだな。冬一郎ちゃんは、今日君に会うなんて、一言も言ってなかったよ」
「違うの、違うのよ、ベン!こんなことになるなんて誰も思ってなかったのよ」
ナタリアは取り乱した様子であった。まるで泣きだしそうな声である。ベンは何やらゾッとした。
「冬一郎がーー冬一郎が大変なの。ラジャさんのカレーを食べたら、急に気を失っちゃったのよ!」