後部座席に座っていた冬一郎は身を起こした。まだ少し頭が痛いようだが、さほどではない。ロンのお迎えまであと30分。今から向かえば大丈夫だ。
「樋口さん、私、樋口さんのお鞄やお荷物をご用意しますね」
運転してくれていたゆずが日本語で言い、車を降りた。助手席にいたラジャも車を降り、こちらに回ってきたかと思うと、ドアを開けるなり冬一郎を抱えて持ち上げようとした。ラジャは一見そうは見えないが力が強く、実際、ダイニングで冬一郎が倒れた時には、小柄とはいえ立派な成人男性である彼を運んで、家から庭を突っ切って車まで走ったのに、息ひとつ切らさなかったのである。
「ラジャさん!大丈夫です、僕、歩けますから!」
冬一郎は慌てて腕を突っ張って拒否した。
「本当に、また抱っこだけは、勘弁してください!」
「冬一郎くん、君ね、無理をしてはいけませんよ」ラジャは眉根を寄せ、思いの外、厳しい調子で答えた。
「人に寄りかかれる時は、寄りかかりなさい!まったく、困った方だーー何日もろくに寝ていない上に、朝食も抜いてきていた、だなんて。フラフラになって当たり前ですよ。ドクターは点滴を打って行くように勧めたのに、従いもしないで!本当に困った方だ」
「さっきお話しした通り、もう息子のお迎えの時間なんです」冬一郎は弱り果てた。
「もし、ご厚意に甘えられるなら、ゆずさんがさっき申し出てくださったように、このまま車で、保育園まで送って頂けると、とても、助かるのですがーー」
「妻がそう言いましたか?日本語の会話が早くて聞き取れませんでした。しかし私は、君は今すぐ、私の家で横になって休むべきだと思いますよ。保育園に電話して、別の者が迎えにいく旨を説明なさい。そうすれば、妻か私が、息子さんを連れてきてあげますから!」
無理やり車から降ろされそうになり、冬一郎は抵抗を試みて、一瞬、ラジャとまるで取っ組み合いの喧嘩みたいになったーーところへ、急にもう一本、別の人間の腕が伸びてきた。驚いて見上げると、ベンがラジャの肩をつかんで、今にも殴りかかりそうな勢いになっている。
「ベン君!」
ラジャも驚いて叫んだ。「いらしていたのですか!」
ベンは手をぐいと強く引き、ラジャを車から乱暴に引き剥がした。
「ラジャさん、あんたは一体、俺のパートナーに何をしてるんだ!?暴力は止めろ!」
「おお…ベン君」
ラジャは両手を顔の前に広げ、相手の怒りを諌めようとした。
「これはまた、大変、不幸な誤解ですーー」
「ベン!君こそ暴力は止せよ、らしくもない」
冬一郎は急いで車を這い出て、2人の間に割って入った。「ラジャさんは、僕に親切にしてくれているだけだよ!」
「冬一郎ちゃん。君、大丈夫なのか?」
ベンが怒鳴った。恐いくらい真剣な表情を見るに、心から心配していたようだ。「急に倒れたっていうから、飛んで来たんだぞ!」
「何でも、ないんだよ」
冬一郎は、ベンを落ち着かせるために、わざとゆっくりと息をついて、説明した。
「そのさ。単に、疲れてたんだ。疲労による一時的な脳貧血だろうって、病院の先生に、言われたよ。ここのところ、ロンの夜泣き続きだったろ。僕、実言うと、全然、睡眠とれてなくてさ…。その上、今朝は、ロンを預ける準備に忙しくて、朝ごはんも食べなかったんだ。もちろんロンには食べさせたけど、ほら、ちょっと油断した隙に、ロンが牛乳一本、全部床にぶちまけてくれたの、覚えてるだろ?ーーああ、覚えてないか。君はまだあの時刻は、寝てたもんな。まあ、そんな騒ぎだったから、自分の朝ごはんは食べるの、忘れたのさ。で、空っぽの胃袋に、急にカレーみたいな刺激物を入れちゃってさ。いきなり立ち上がったら、頭がちょっと、くらくらしたんだ。本当にそれだけなんだ。僕が悪いのさ。ラジャさんは、とても親切にしてくれたんだよ。病院なんか大袈裟だから行く必要ないですって僕は言ったんだけど、ラジャさんがどうしてもすぐ行かないとダメだっておっしゃって。奥さんが、車まで出してくれたんだ」
「何かの食物アレルギーのアナフィラキシー反応ではと、とても心配したのですよ」
ラジャが言い、ポケットから小さな包みと小瓶を取り出した。
「だから私もお供して、テスト用に、カレーに使った香辛料の全てを持って行ったのです」
「ああ、そうそう」冬一郎は病院での出来事を思い出して、思わず可笑しくなった。
「ラジャさんがスパイスを出したらさ、カレーの匂いで診察室がいっぱいになったんだ。お昼時だろ?みんなお腹空いてたみたいで、誰かのお腹が大きな音でグーって鳴ってさ。そのタイミングで、アサフェテイダっていう臭〜い香辛料の瓶を開けたもんだから、もう、医者や看護師さんたちの表情といったらさ!」
あはははは、と冬一郎はベンに笑いかけたが、ベンはにこりともせず睨み返してきた。冬一郎は慌てて笑いを抑え、ううん、と咳払いした。
「ごめん…。心配かけた、よな」