「ごめん…心配かけた、よな」
「その香辛料のサンプルは、俺が預からせてもらおう」
宣言するような声に一同が振り向くと、家の方から、ミカエルがゆっくり歩いて近づいてきた。冬一郎のメッセンジャーバッグを持っている。ナタリア、それに、可愛いキーリン君を抱いたゆずも彼の後ろからついてきていた。
ミカエルは、ラジャの手から小包と小瓶を取りあげた。
「大変失礼だが、奥さんに断って、台所に入らせていただいた。皿のカレーを、少しもらいました」
ミカエルは茶色い液体の小量入ったビニール袋を見せて軽く振り、冬一郎のバッグへとしまった。ラジャは少し戸惑った様子で、肩をすくめた。
「ええ、それは、構いませんがーーははは、参ったな。まるで取り調べではありませんか。もしや私が、冬一郎君に毒を食べさせたとでも、疑われているのでしょうか?」
ミカエルは答える代わりに、軽く眉を上げてみせた。ナタリアは全てを冗談だと思ったらしく、声をたてて笑った。
「毒?そんなわけないじゃないの、あははは!可笑しいわ!」
冬一郎は急に現れたミカエルの姿にぼうっとしていたが、ふと、先刻、ナタリアがミカエルの声をセクシーだと言った発言を思い出し、何やら恥ずかしいような気持ちになって、一人で赤面して下を向いた。
ベンは冬一郎を小突いた。
「冬一郎ちゃん、庭の向こうにミカちゃんの車を駐めてるから、乗れよ。ロンを迎えに行かないとならないだろ」
「ベン君、冬一郎君は、疲れているんですよ」
ラジャが真剣な面持ちで咎めた。
「彼は今すぐ、家で休ませるべきです。ここで無理をさせては、また倒れてしまいますよ。お迎えは別の者が行けば良いでしょう?」
「せっかくのご提案ですが」とベン。
「面倒な手続きを踏むより、彼を連れて行くのが一番早いのです」
「そうかもしれませんがーー」
ラジャは少し迷った後、言った。
「ベン君、余計なお世話ついでに申し上げますが、ね。冬一郎君の話を聞いた分では、どうも、冬一郎君だけに、ロン君のお世話の負担がかかりすぎているようではありませんか。いけませんよ。子育ては重労働なのですから、苦しみはよく分担しなければ。私も同じ父親として言っているのです。うちのキーリンも時々夜泣きをするのでわかりますが、眠れないというのは本当に辛い事ですよ。睡眠が不足すると、どんな人間でも…」
ラジャは言葉を途中でやめた。相手の表情から、いよいよ逆鱗に触れてしまったことが明らかであったからだ。ベンは、首から頰あたりまで怒りで赤く染めていた。彼は肌が白いから、紅潮したときの変化が隠せないんだよなーー冬一郎はそんなことを考えた。
「本当に、余計なお世話だ」彼は攻撃的に唸った。
「俺たちのプライベートをそんなに心配してくださるならば、例の研究の成果報告を、そうしょっちゅう要求しないようにして下さい!」
「まあ嫌だ、どうしたの?2人とも、喧嘩しないで?」
ナタリアが再び泣きそうになって言った。
「ベン、ラジャさんはとてもいい人なのよ。みんな仲良くなりましょうよ、私、みんなのこと、クラブに誘おうとしていたのにーー」
「そうだよ、ラジャさんは親切でおっしゃってくれてるんじゃないか」
冬一郎はなだめるつもりで声をかけたが、ベンの頬がいよいよ火のように赤くなるのを見てすぐに後悔した。ベンはベンなりに、よい父親であろうと日々努めているというのに、真正面から他人に批判された上、パートナーまでその他人の方の肩をもっては、立つ瀬がないというものであろう。ミカエルにも強くにらまれ、冬一郎は縮こまった。
非常に気まずい雰囲気がその場を支配した、その時。
「あのうー、樋口さん」
ゆずが突然、周りを全く意に介さないかのような、呑気な調子の日本語で、言った。
「ミルクティーは、お好きですか?」
「へ?」
冬一郎がぽかんとして聞き返すと、ゆずは手にかけていた紙袋を差し出してきた。
「これ、どうぞ。中に、水筒と、にんじんのおやつを詰めたタッパーが入ってます。とってもお腹に優しいです。タッパーは捨ててもいいですけど、水筒の方は、できたら、返してくださいね」
いつでもいいですから、と袋を渡され、はあ、ありがとう…と、冬一郎も日本語でまごまごと礼を言って受け取った。「時間だせ、行こう、ベン」
ミカエルはベンの肩に手を置いて促した。
「冬一郎も、来い。歩けるか?」
大丈夫です、と冬一郎はうなずき、3人は庭を歩き出した。
冬一郎は最後に振り向いて、頭を深く下げて挨拶した。
「ラジャさん、いろいろご迷惑をおかけしました」
「なんの、楽しかったですよ。きっとまた遊びにおいでなさい。約束ですよ」
ラジャはにっこり笑って答えた。なんて心の広い人だろう、と冬一郎は思った。ナタリアもゆずも手を振り、キーリン君も、小さい手をバイバイとわずかに振ってくれた。