「なにを大袈裟な…」冬一郎は呆れた。
「僕が一体、誰に殺されるっていうんだ。今日僕が倒れたのは、単なる疲労だってば。それを君ときたら、まるで殺人事件みたいに騒いで、ミカさんまで巻き込んで刑事ごっこしてさ」
「君がそんなことを言うのは、君が平和な日本人だからさ」
ベンは水筒の蓋を調べるようにひっくり返した。
「アメリカに来てみろよ。同性愛者だというだけで、あからさまな攻撃を受けたり、暴力を振るわれたりなんて事はちっとも珍しくないんだぞ。日本はそりゃ、法整備は進んでないし、きっと裏では陰湿ないじめもあるんだろうが、少なくともゲイだから撃ち殺されたって話は聞かないよな。それで、君は呑気でいられるのさ」
「…」
そうか。
冬一郎は考え、ベンの気持ちを少しだけ理解した。
確かに自分は長い間、ゲイであることを恥ずかしいとひた隠しにはしてきたが、同性愛者だから殴り殺されるかもしれない、などと怯えてはこなかった。だが、ベンが生きてきた国では、きっと事情が違うのだ。アメリカは自由の国でありながら、差別や暴力の激しい所でもある。ついこの間だって、肌の色の違いを理由に行われた殺人に対し、大きなデモ運動が起きたばかりだ。今日、ベンは、本気で僕の命を、案じたのだろうか…?
「分かったよ、ベン」冬一郎は言った。
「君を不安にさせないように、僕はもっと気をつけることにするよ。自分の身を大事にする。ほら、前も約束したろ、僕は二度と街で喧嘩しないし、騒ぎを起こしたりもしないって。僕はもう立派な父親なんだ。慎重に行動する。だから安心していいよ。僕を信じてくれ」
「信じたいけど、でも、どうだかな」と、ベン。
「君はさあ…危なっかしくてならないんだよ。喧嘩に限らず、いろいろさ。今だって君、新しいトラブルに片足、突っ込んでるんだろう?」
「新しいトラブル?…一体、何の話だよ」
冬一郎はややムッとした。なんだよ、僕が信じられないのか?誰が危なっかしいもんか。だいたい、いつもキテレツな言動でトラブルを次々起こしまくるのは、ベンの方なのに。
冬一郎がにらむと、ベンは水筒をいじりつつ、
「気付いてないのか?それとも俺に隠そうとしてるのか?どっちなんだい」と真面目な顔で見つめかえしてきた。
「今なら許してあげるから、正直に言えよ、冬一郎ちゃん」
「だから、なんの話だってば?」
「浮気の話さ」
「…?」
あまりに突飛な発言に、冬一郎は一瞬きょとんとし、次いで、心底あきれて、笑ってしまった。
「あはははは、ベン、君、馬鹿だなあーーまったく、馬鹿だなあ! 何を変なこと考えてるんだよ。ゲイの僕が、どうやったらそんな気軽に浮気できるんだ。…ひょっとして、僕が君よりラジャさんとの約束を優先したからって、彼に嫉妬してるのか?もしそうなら、本当にとんでもない言いがかりだよ。彼は男になんか、これっぽっちも興味ないさ!」
「そりゃそうさ。ラジャはむしろ同性愛嫌悪者だろう」とベンは相変わらず真面目な顔で言った。
「でも、彼の妻の方は、どうかな」
「へ?」
「彼女にとっちゃ、ゲイだろうとなんだろうと、君は男だろ。恋愛の対象かもしれないじゃないか。君は可愛い顔してるし、その上、誰彼なしに優しいしさ。彼女に気に入られて、火遊び半分、言い寄られているんじゃあないのかい?」
「しーー失礼を言うな。ゆずさんはそんな人じゃない」
冬一郎はとても腹を立てた。ベンのやつ、急にどうしてしまったんだろう。一日じゅう僕のことを心配しすぎて、頭がおかしくなったのだろうか。普段なら、彼はいつも女性への尊敬に満ちて、よく知りもしない女性の悪口なんか、絶対に言わないはずなのに。
「なあ、ベン。今日君を不安にさせたのは悪かったけれど、ラジャさんやゆずさんに対して突っかかるのはもう、止めてくれよ。2人はとても親切で素敵な夫婦だ。可愛いキーリン君だっていて、ラジャさんはそれこそゆずさんを熱愛してるのに、たとえ気の迷いだろうと彼女が僕に興味を持つなんてこと、あるもんか」
「あるさ。君が能天気すぎて、気付かなかっただけさ」
「ベン!いい加減にーー」
冬一郎が声を荒らげると、ベンはポイ、と手に持っていた水筒の蓋をこちらに放ってよこした。コップがわりに使うこともできる、プラスチックの蓋である。冬一郎は訝しく思いながら拾いあげた。
「内側だよ」
ベンに促されて、冬一郎はコップをひっくり返した。すると、中のカーブに沿うようにして、小さな紙切れが入っているのに気がついた。何か数字が書いてある。
自分の目が信じられずに、冬一郎はそのメモを取り出して広げ、天井の蛍光灯に透かすようにして見つめた。
紙には、コロンとした丸い手書きの日本語で、
「樋口さん、今度、2人だけでお会いできますか。助けていただきたいんです。主人にはくれぐれも内緒にして下さい」
との言葉に、携帯の電話番号が書き添えられていたのだ。