「うん…。日本語だから、俺にはいまいちニュアンスが分からないが」しばらくしてミカエルが考え込むように言った。
「しかしーー『助けて』、と書いてあるな」
「そうだね」ベンも慎重にうなずいた。
「こういう、ハイクみたいな短い日本語の文章の、行間の意味だの何だのってやつは、俺には理解不可能だけどさ。でも、助けて、は確かに気になるな。無視できない」
「そうだろ?だから僕も困ってるんだ」
2人が関心を示してくれたことで、冬一郎はやっとほっとして、正直な心の内を訴えることができた。
「これは俳句でもポエムでもないよ、ベン。ゆずさんはきっと文字通りに、助けを求めてるんだと思う。実は僕、思い出したんだーーラジャさんのお宅で、彼女と少しだけ2人きりになった時間があったんだけど、そのとき彼女、確か僕に、『助けてほしい』って言ったんだよ。直後に僕が猫につまづいて、ラジャさんも現れたから、それきり曖昧になってしまったんだ。ゆずさんは、ラジャさんの前ではとても静かで、あまり喋らないんだよ」
ふーむ、とベンは唸った。
「どう思う、ミカちゃん?ーーまさか、DVってことはあるかな」
「うーん…」
ミカエルも唸った。
「さあなあ…。だがもし万が一そうなら、ことは深刻だぜ。家庭内暴力は時に命に関わるからな」
「でもね、ミカさん、そんなはずないんですよ」
冬一郎は弱り果てて、頭を抱えた。
「ラジャさんはこの上なく紳士的で、ゆずさんのことをものすごく大事にしているように見えたんです。僕、ラジャさんを見習おうって決心したくらいなんだ――だから彼が彼女に危害を加えるなんて、とても想像できない」
「あいつは冬一郎ちゃんに危害を加えたじゃないか」
「加えてない」
冬一郎がきつくにらんだので、ベンは、ちえ、と苛立たしそうに舌打ちした。しかしそのあと、彼は深いため息をつくや、半ばあきらめたような調子でこう言った。
「分かったよ…、許すよ。その番号に連絡していいからさあ、とにかく、彼女の話を聞いてあげろよ、冬一郎ちゃん」
冬一郎はぱっと顔を上げた。ベンを見ると、彼は、うん、とうなずいて、励ますように少し微笑んでさえくれた。たちまち、冬一郎の胸はじーんとあったかくなり、どこからか勇気がわいてきた。
「ベン! ありがとう。君なら分かってくれるって思ったよ。君は、困ってる女性を見捨てたりしないものな!」
「ただし、ちゃんと報告してくれよ。本当は俺は嫌なんだからな。君がラジャの所とこれ以上関わるのも、誰かと2人だけで会うってのも」
「とりあえず、飯を食えよ、冬一郎」
ミカエルがミートボールを自分の口に押し込みながら言った。
「そして、寝ろ。お前がそんなふらふらじゃ、誰かを助けるどころじゃないだろう。空腹と睡眠不足でまたぶっ倒れる気か?お前を一番必要としているのは、どこぞの女じゃあなくて、ロンなんだぜ。今日は寂しかったみたいだしな、今夜は、ロンの夜泣きはいつもより激しくなる可能性が高いな。――なあ、ベン、俺は今夜からしばらくの間、ここに泊まりたいんだが、いいか?」
「ミカちゃん!」
「ミカさん!」
冬一郎もベンもこれには驚いて、同時に叫んだ。
「君がここに泊まるって?なぜだよ、うるさくて眠れないぞ?ロンの夜泣きはきついんだ、放っておいたら、何時間だって絶対に泣き止んでくれないんだぞ」
「ああ、だから交代であやして、交代で眠ろう。人数がいれば、何とかなるだろう」
「だめですよ、ミカさん」冬一郎は強く首を振った。
「食事やいろんな世話を手伝ってもらっているだけで、なんてお礼を言っていいか分からないくらいなのに、この上ロンの夜泣きに付き合ってもらうだなんて!いくらなんでも、さすがにそこまでは甘えられません」
「そうだよ、俺も冬一郎ちゃんも寝不足なのは確かだけどさ、この上ミカちゃんまで睡眠不足になることはないよ」
「冬一郎。お前は今日倒れたんだぜ。いいから黙って、少し寝るんだ」
ミカエルは冬一郎をはねつけるように厳しい調子で言った。と思うと、今度はベンに向き直り、この上なく柔らかな口調に変わると、まるで甘えるかのようにこう言った。
「なあ、ベン。君の頭脳がないと、俺たちのプロジェクトは一歩も進まないだろう? だから、君にはちゃんと睡眠をとってもらわないと困るんだ。なあに、単に、順番にロンの面倒みようってだけさ。俺はロンが可愛いし、いつだって、君の役に立ちたいんだ…。だから俺を泊めてくれ、いいだろう?さっき戻った時に、歯ブラシと着替えも持ってきた。横になるのはそこのカウチで構わないぜ。な?」
「いや、そんな…カウチじゃ、君の脚がはみ出るだろ…」
ベンは、いつになくしどろもどろ、迷いながら口ごもった。
「俺たちのベッドを使っていいよ。いや、もちろん、もしよかったら、だけどさ。その、最近、全然使ってないしさ、だから、その、気持ち悪くないと思うよーー」
「?」
ミカエルがいぶかしげにすると、ベンは耳まで明らかに赤くなって、目を逸らした。
「いや、そのさ…最近、本当に誰も使ってないんだよ、寝室のベッド。冬一郎ちゃんは、ロンを寝かしつけたらそのまま畳にばったり倒れて寝てるしさ、俺は俺でパソコンで仕事しながら、机に突っ伏して眠っちゃうんだ。だから、シーツも何も汚れてないって意味さ。それでも気持ち悪いなら、無理強いしてるわけじゃ、ないけど」
いや、ああ、そうか…と、非常に曖昧な返事をして、ミカエルも少し目を逸らした。