アメリカ人のベンは納豆が苦手である。
見た目からしてダメ、味がダメ、香りもダメで、彼の留守中に冬一郎が1人で食べたあと、部屋に少しにおいが残っているだけで顔をしかめて逃げだすくらいだ。冬一郎は納豆を好きだが、無いと生きていけないわけではないので、パートナーが嫌がるのであれば、我慢するのみ、である。
しかしある日、ロンが絵本で納豆のイラストを見て、食べてみたいと言い出した。そこで試しに少しあげたところ、大いに気に入った様子で、それ以降、納豆ごはんばかりたべたがるという一大納豆ブームが訪れたのである。
納豆は身体に良い健康食品であるし、何より調理いらずで、腹ペコの子供に簡単に食べさせることができる。冬一郎は、パートナーの安らぎをとるか、子供の好きな食事をとるかという、大変厳しい(?)選択を迫られたわけである。
そんな時、助けの手を差し伸べてくれたのは、例によってまたミカエルであった。
「ナットー?」電話口で彼は言った。
「ああ、日本の伝統食の、発酵した大豆のことだろう?俺は食べた事はないが」
「ええ。とても身体に良いんですよ」冬一郎は愚痴がてら話した。
「ロンが好きなので食べさせたいのですが、ベンがとても嫌がるんです。部屋ににおいが残っているだけでダメらしいから、こっそり食べさせることもできなくて」
「…そうか、ベンがそれを嫌いなのか」
ミカエルは少し考えるように間を置いてから言った。
「なら、俺のマンションを使うか。そのナットーとやらを俺の所の冷蔵庫にストックしておいて、好きな時にロンに食べさせたらどうだ」
「えっ、いいんですか、そんな事させてもらって」
冬一郎が聞くと、ミカエルはため息をついた。彼は冬一郎の遠慮がちな態度が嫌いで、いつも非常に面倒くさそうにする。
「いいから、ロンを連れて来い。Mi casa, es su casa(私の家はあなたの家)..いまさら言うのもバカらしいぜ」
そんなわけで冬一郎は、さっそく納豆を買い込み、ロンと一緒にミカエルの宅に向かったのである。
納豆のパックをテーブルに3つ並べ、透明のフイルムをとってみせると、ミカエルはちょっと鼻にシワを寄せて、
「ふむ。たしかに、なかなか強烈なにおいがするな」と言った。
「大豆の塊…ロンはこれが好きなのか」
「なっとー、しゅき!」
ロンは頷きながら、タレの小袋をふって誇らしげに、「ロンできる!」と言った。
「ほう、これはソースか?自分で開けられるのか、ロン」
「あ、これ、子供でもできる最新型のタレなんですよ」
冬一郎は説明した。大袈裟な言い方であるが、初めてみた時は少々感動したものである。納豆は、最初の透明のフイルムを剥がすのと、タレや辛子の小さな袋の端を慎重に切り取ったりするのが、地味に手間だ。子育て中はタレだけでも工夫されていると嬉しいのである。
「両手で軽く押すだけで、ぴゅっと簡単に出てくるんです。ほら、ロン、やってごらん」
正しい方向に持たせてやると、ロンは納豆めがけてぴゅっとタレを出した。親バカながら喜ばしく思って、ミカエルの方を見やると、彼の手元からタレがぴゅっと顔の方を直撃している所であった。
タレの小さな袋には、日本語で「出口」との記載があるがタレの色と混じって読みにくく、示されている矢印も、矢印の先を上に向けるのか下に向けるのかが、定かでない。屈んでよく確かめようとしたとたんに、意図せず指に力が入って、たれが飛び出てきてしまったものと見える。
袖で顔を拭った彼は、明らかに恥ずかしそうであった。
「み、ミカさん、大丈夫ですか?」
「みちゃちゃ、らいじょぶ?」ロンも心配した。
「ああ。…いや、ティッシュは要らない。ロンは、よくできたな、偉いぞ」
赤面しながら平気を装う様子が、なにやらいじらしくて、冬一郎は、(う、可愛いな…)などと、失礼と分かりつつもつい思ってしまった。
つづく
納豆の話シリーズ↓