朝、目が覚めてキッチンに行ってみると、彼が一生懸命、リンゴをむいて、バターをカットしていたのです。
「どうした、急に」僕は驚いて聞きました。「君がアップルパイを作るなんて??嫌いだろ?!」
そう、ベンは、アメリカ人のくせにアップルパイが苦手なのです。加熱したリンゴのでろっとした感じがとにかく好みでないそうで、完全につぶしたアップルソースでさえ、嫌がります。(それなのに僕は結構そういう系の料理を作ります。↓)
するとベンは、えへへ、といたずらっぽく笑って答えました。
「びっくりした?今日、カレンダーをみたらさ、急に、君に特別なパイを焼いてあげなきゃ!って思い立ったのさ」
「--なんで?」
僕はベンの奇行には慣れっこですから、別にもう彼が何を思いついて何をしはじめようが殆ど構わないのですが、それでも首をかしげました。
「3月14日なんて普通の日じゃないか…あ、もしかしてホワイトデー、か?でもそんなの、僕らには関係ないだろ? そもそも、ホワイトデーなんて、”お返し”が大好きな日本だけの奇妙な習慣で、アメリカにはそんなものはないんだろ。君が教えてくれたんじゃないか」
「冬一郎ちゃんはそう言うと思ったよ。君ってやつは、全然、ロマンチックじゃないんだから」
ベンは肩をすくめました。
「たとえホワイトデーが日本だけの習慣だろうと、それが恋人たちの愛のイベントであると知った以上、無視するなんて俺にはできないね。だって俺の大事なパートナーは、日本人なんだし。--とはいえ、”ホワイトデー”のコンセプトは俺にはいまいちよく理解できなくて、何していいのか、今までよく分からないでいたんだ。バレンタインは絶対チョコレートがルールなのに、ホワイトデーには、特にそういう決まりはないんだろ?」
「まあ、そうだな。なんとなく、クッキーとかマシュマロのイメージだけどね。でも、義理チョコのお返しでクッキーあげても、あんまり喜ばれたことないなあ。しょうがないから、もうちょっと高級な、ブランドの名前のケーキとか、紅茶とか、それか、ハンカチみたいな小物を買ってさーーそういうののほうが女性は喜ぶんだよ。だって男側はさ、女性が使った金額より多い金額を使ってお返しするのがマナーなんだからさ」
「俺の知らない女性たちに君が買う義理ギフトの話なんか、どうだっていいんだよ。俺は全然、興味ないね」
どうやら僕はベンの機嫌を損ねたようでした。みれば彼はすっかりむっとした様子で、重みをかけてパイをのしていました。
「本当の愛のこもったホワイトデーには何をしてお祝いすればいいのかって俺は聞いているんだよ。これだからホワイトデーってのはよくわかないのさ、”おかえし”することだけが目的なのかい?全く」
「ごめん」僕はなんとなく謝りました。「で…それで、なんで君は、いきなりホワイトデーにアップルパイっていう結論になったんだ?」
「あはは♡よく聞いてくれたね!」
ベンは一転してとても嬉しそうに笑いました。
「だって3月14日なんだもの!どんなスイーツを作ればいいかなんて、よく考えなくたって明らかじゃないか?!パイだよ、パイ!なんで今まで思いつかなかったのかが不思議だね!」
「いや…、何言ってるのか、よく分かんないんだけど」
「鈍いなあ。3.14だよ、πの日だって言ってるのさ」
ベンはのし棒を置くと、見事な円形に整えたオレンジ色のパイ生地を、パイ皿の上に実に上手に広げました。その様子を眺めながら、数学のセンスの皆無な僕もようやく、彼の言わんとするダジャレを理解しました。円周率のπ=3.141592...と、スイーツのパイとをかけているわけです。
「なるほど、な。わかったよ」
僕はあまり感心せずに言いました。「でも、なぜよりによって、君の嫌いなアップルパイなんだ」
「だって、冬一郎ちゃんが1番好きなパイじゃないか」
と、ベン。
「君、最初にアメリカ料理を覚えたいって言い出した時から、アップルパイ、アップルパイって言い続けてるだろ。ミカちゃんにスウェーデン風のアップルパイ教えてもらった時、君、ものすごく喜んでたよね。あれ以来、君、ミカちゃんの作るスウェーデン菓子や料理ばかり真似しちゃってさ。アメリカ料理はどうしたんだよって感じで、俺、実は少し妬いてたのさーーでもさ、君がアップルパイと言ったのに、一度もちゃんとそれを作ってあげてない俺が、悪いのかなとも思ってさ。それで、今日は、愛の日でパイの日だから、冬一郎ちゃんのために特別なアメリカン・アップルパイを作ろうって決めたのさ。大好きな君に、君の一番喜ぶだろうパイを、ありったけの愛を込めて♡」
ベンは歌うように言いながら、スライスしたりんごの上にシュガーポットをひっくり返して、砂糖を山と盛りました。
「…ごめん」
僕はなんとなく、また謝りました。なんだかとても後ろめたい気持ちというか、胸の奥がざわつく感じでしたが、何故なのか自分でも理由がよくわかりませんでした。
「ーーその、気持ちは嬉しいけど。そんな無理してまで、君の嫌いなりんごを料理しなくても、よかったのに。何か、もっと君の好きなものの入ったパイにしてくれた方が、僕はよかったんだよ」
「ふふ。やっぱり優しいね、冬一郎ちゃんは」ベンは甘く鼻を鳴らしました。
「でも心配しないで大丈夫だよ、俺はりんごは苦手だけど、パイ自体は好物さ。そして今回のパイ生地には、俺のだーいすきなヒミツの材料を混ぜ込んでるんだよ。ありったけの”愛”を込めて、って言っただろ?とことん味わってくれよ」
「ああ、はいはい。バターね」
僕は少々げんなりしました。ベンが料理の際に言う『愛』とか『秘密』とかは大抵の場合、バターを意味します。そして、愛は惜しみなくたっぷり!が、彼の信条なのです。このために彼の料理は、とんでもなく美味しいんだけど異常なほどハイカロリーで、胃にもたれます。彼がどうしてそのすらりとした身体でいられるのか、謎です。素晴らしい数学コンピュータである彼の脳みそが、大量のエネルギーを消費してでもいるのでしょう。しかし、まあ、パイというのは元々バターをたくさん使う食べものだから、今回は、そこまでクレイジーというわけではないかなーー
そんな僕の考えを見透かすかのように、ベンは不敵な笑みを浮かべて首を振りました。
「あはは、違うよ、冬一郎ちゃんったら。パイにバターなんて、当たり前すぎるじゃないか。もちろんバターは2スティック使ってるけど、その上にさらに特別な”愛”を込めたんだよ」
「なんだって?ちょっと待ってくれよ」僕は急にゾッとしました。
「2スティック?パイ一台で?僕はパイ一台にバター1スティック以上使ったことなんかないぞ!」
「ああ、だから君のパイはいつもイマイチなのさ」
ベンは至極あっさりと僕の料理を貶しました。
「君はいつだってグダグダ言って料理のバターをケチるからいけないんだよ。アメリカ料理の基本、いい加減に覚えろよな」
「待て、待て、待て。バターを僕の2倍使った上に、さらに一体、何を入れたって?」
「知りたい?」
「あんまり知りたくないけど教えてくれ!」
「チェダー・チーズさ」
僕は急いで冷蔵庫を開けました。きのうまで確かにそこにあった、拳2個分以上ある巨大なオレンジ色のチーズの塊が、きれいさっぱり消えていました。まさか、全部使ったのか。いや、聞くだけ無駄だ。ベンのことだ、全て使ったにきまってる。どうりでパイ生地が鮮やかなオレンジ色だったわけだ。
「愛してるよ、冬一郎ちゃん」
呆然とする僕を、ベンがうしろから抱きしめてきました。彼のシャツの腕からは、りんごとシナモンの甘い香りに紛れたチーズの匂いがはっきり嗅ぎ取れました。
「パイの日、おめでとう。これから3月14日には、必ず君にこのアップルパイを焼いてあげるからね。毎年毎年、ずっとずっと、永遠にね」
彼の愛のカロリー値が高すぎて、僕は何も食べない内から胸が焼けて、ヒリヒリ痛いように思われました。
チェダーチーズ・アップルパイのレシピ
材料(Lサイズ1台人分)
強力粉 160g
薄力粉 160g
バター 200g
チェダーチーズ 150g~ (←ベンのやつは当然もっと使ってました)
冷水 大さじ10杯
リンゴ酢 大さじ1杯
りんご 5〜6個くらい
グラニュー糖 150g
シナモン 小さじ1/2杯
コーンスターチ 大さじ2杯
レモン汁 大さじ1杯
バター 大さじ1杯
バニラアイスクリーム(トッピング) 適量
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チェダーチーズ入りのパイ生地(焼く前) |
作り方
1 バターを1センチ角に切り、冷蔵庫でよくよく冷やしておきます。
2 チェダーチーズはチーズおろしでおろしておきます。
3 大きなボールに強力粉と薄力粉を合わせ、バターを入れて、切るようにして粉に混ぜ込んでいきます。
4 バターが小豆くらいの大きさになったら、チェダーチーズを加えます。
5 冷水とリンゴ酢を加えて軽く混ぜ、全体を手で丸くまとめます。
6 りんごは皮をむいて芯を取り、薄く5ミリ程度にスライスします。
7 ボールに砂糖とコーンスターチとシナモンを合わせ、リンゴとレモン汁を入れて、軽く混ぜます。10分くらい置いて馴染ませます(少しかさが減る)。
8 パイ生地を半分にわけ、のし棒でそれぞれ円形に薄く伸ばします。
9 パイ皿にバター(分量外)をよく塗りこみ、伸ばしたパイをしきます。その上にりんごをしきつめます。
10 もう一枚のパイは、上にそのままのせて十時に切り込みを入れるか、細くカットして格子状に組みます。パイの隙間から、バター大さじ1を小さくちぎって、差し込みます。
11 220度に予熱したオーブンで30分焼き、180度に下げて、さらに40分焼きます。
12 室温程度まで冷ましたら、バニラアイスクリームをどーんとたっぷり添えていただきます。
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極めつけのアイスクリーム。カロリースカイハイ |